経緯
たまたま読んでいた二次創作がざまぁ的な展開があって、いろいろと考えた。
原作のキャラクターに長所短所があって、まあまあツッコミどころ満載のもの(ハリポタみたいな感じ。そしてハリポタと同じくかなり長編)。
ざまぁについて
1. はじめに
これはあくまで私の記憶の整理のためのものであって、この考えが正解とは言わない。
また、ざまぁを強く批判するものでもない。(個人的にざまぁは好きか嫌いかというとあまり読みたくない。イヤミスのような読了感になるので)
2. ざまぁの善悪感
読んでいた二次創作はべつにざまぁを主題にした話というわけではなかった。
しかし過度に主人公を愛すあまり、望むとおりに主人公を愛さない他キャラクターについて辛辣だった。
確かに彼らはあまり良いことをしていたわけではないが、それに対する主人公のやりようも悪辣で、正直私としてはどっちもどっちのように感じた。
これが主人公が自分の悪意に自覚的であればよいのだが、さも己こそが正義というような顔で話を進めていくのでかなりイライラとした。
私自身、「ざまぁ」というジャンルをそれほど読んでいるわけではないが(たまに手を出してみてすぐに逃げている)、私の観測範囲ではその二次創作のように「どっちもどっち」というような(むしろ主人公の方が悪辣のような)作品が多かったように思う。
別に反撃するな、というわけではない。しかし反撃するならば正当性を持ってやってほしい。やり過ぎはそれすなわち同じ穴の狢であるし、一読者としては引いてしまう。
特に主人公が正当性を主張しつつ(しかしその主張はかなり破綻している)相手を殴っている時には、むしろ主人公に嫌悪を抱く。
このような時、作者は主人公の正義が歪んでいることを自覚しているのだろうか。
多くの場合、自覚していないのだと思う。
個人的に、自覚した上で書かれているのであれば「なるほど主人公も自覚しているのだな」とある程度飲み込むことができるのだが、自覚がないものだとその邪悪さに圧倒されてしまう。
ざまぁを書く上で、善悪の認識は非常に大切だと思う。
それが歪んでいれば読者に違和感を抱かせるし、過剰であれば引いてしまう。そして逆に過少な場合は爽快感を得られない。
3. ざまぁを書くうえで必要なもの
「作者の正しい善悪感」が必要になる。
しかし正しい善悪感があったとしても、おいしいざまぁが書けるわけではない。
上で言った通り、善悪感を気にしすぎてざまぁ部分が過小だと読者が望んだような爽快感がないからだ。
ならば、どのようにすればいいのだろうか。
4. 爽快感を得るためにどうすればいいのか。
通常通り、主人公が挫折→復帰→ざまぁとなってもいい。
だがそれはどうしても泥臭く、また報復の塩梅が難しくなるように思う。
主人公の傷に対して主人公自身が報復すると、あまりに読者と主人公の距離が近すぎて、万人を納得させる報復が難しいのだ。
ならばどうすればいいのか。
そのひとつに、「挫折する主人公と報復する主人公を別にする」という答えがあるのではと思う。
たとえば『悪役令嬢の中の人』。(たまたま広告を見て、原作と漫画を少し読んだだけ。全部読んだわけではない。)
悪役令嬢レミリアに転生した「エミ」の冤罪を晴らすため、中から見守っていた本来のレミリアが目を覚ます(面倒なので書籍の説明をそのままコピペ)
つまり「挫折する主人公」が「エミ」で、実際ざまぁをやっていくのが「レミリア」。この場合はレミリアにエミが憑依している感じだろうか。
読者はエミが辛く当たられるのをイライラしながら読みつつも、語り口はレミリアなのでその悪感情にある程度の距離を開けられる。
そして得てして本人が本人を救うのは「泥臭く」なる。
だが体としては同一人物でも心は別となれば、それは限りなく自分でありながらやはり他人である。そのため「自分を救う」というより「他人を救う」ことになる。
これによって「自分を救う」よりより強い爽快感を与えることができる。
そしてこの際、救う主人公は悪役の方が具合がいい。
自覚ある悪役の場合、過剰にやり返しても「そういうキャラクター」として受け入れられる。
『悪役令嬢の中の人』はなかなかいいキャラクター構成だったのではと思う。
5. 本人が報復しない他の例
『聖母の断罪』も良い例になると思う。
この場合は、息子を殺された母親の復讐である。
やはり本人の傷を本人が雪ぐ、という形よりも、傷つけられて復讐する程度に親しい相手であるが、それは本人自身ではない、とした方がその復讐劇を飲み込みやすいように思う。
ただこれは「ざまぁ」というよりただの復讐劇かも。
そもそもざまぁの定義があやふやなのでアレだが。
最後に
つれづれ書いたのだが、つまりざまぁって塩梅が難しいよね、という話。
脳内のものを書き散らしただけなのでかなり乱雑。
そしてたぶん、私はこれを主題に書くことはないと思う。